太陽への攻撃

七つの大罪は人類の友。

「器の大きさ」について

 あの人は「器の大きな人だ」と聞くと、

「細かいことを気にしない人」という意味合いが強く響いてくると思うのだが、私が思うに、この定義はちょいと不十分な気がする。

 

最近、息抜きに『新装版 ロードス島戦記』を1巻から7巻まで通して読んでみたんだが(再読)、各国の王と、主人公のパーンの考え方がいい対比になっていて、そこではたと気づいたわけだ。

 

 

 

主人公のパーンはこういってよければ草の根主義で、「一人でも多くの人を助けたい、王になれば見捨てなければならない人が出てくる、自分はそういう生き方には共感できない」という思想の持主。

 

当然ながら王の身としては、すべての人を救うのは実質的に無理で、選択肢の中で多くの人を救うことになる手立てを確実に打っていく、という考えになるだろう。

 

ここから考えるに、「王の器」とは、

「大きい目的のためなら、小さな犠牲には目をつぶる」という考え方ができる人なのだと考える。

 

「戦争に勝つ、国を守る」という大きな目的のためなら、

「兵士が戦争で死ぬ」という小さな犠牲には目をつぶらねばならない。

 

王の視点は広く、下々の視点は狭い。

社長が世界経済とか日本経済とか業界の動向とかを見極めて会社の舵取りをしている中、平社員たちは目の前の仕事を確実にこなしていく。最大の利益を得て会社を発展させていくという大きな目的のために、小さなトラブルには目をつぶるか、下の者に任せて解決させる。

 

 

器の広さというのもこの考え方で理解すべきではないかと考える。

ある大きな目的のために、小さなトラブルや不愉快なことには目をつぶり、最後には目的を達成すればよい、と考えることのできる人、こういう人が「器の大きな人」になるのではないか。

 

女の子とデートするとして、「今日一日を彼女と楽しく過ごす、最後には二人とも笑顔で今日一日を終える」という目的を掲げたら、彼女の化粧が崩れていても、食べ方がなっていなくても、一緒に見た映画がいまいちでも、自分に合わない意見を彼女が言ったとしても、「今日一日を彼女と楽しく過ごす」という目的に比しては小さなことであり、そんなことは笑って許してやればいいだけのことだと思うことができる。

 

逆に器の小さい人は、「やたら細かいことに意識を取られ、結局何がしたかったのかがよくわからないまま終わった」という人のことを言うのだろう。

 

朝目覚めたときに、「今日一日笑顔で終える」と自分に宣言したら、日常の些細な出来事にも寛容の気持ちで接することができると思うのだがいかがか。

 

 

「大きな目的のためなら多少の犠牲は仕方ない」を、

「私の達成したい野望のためなら他人を多少犠牲にしても仕方ない」と読み替えてもいいかもしれない。大丈夫、受験ってまさにこれだから。

 

器の大きな人って、大きな目的を持つ視点の広い人のことかもしれないね。